12 パルメニデス


第12回サイファイカフェSHE 札幌

ポスター


テーマ: 最初の形而上学者パルメニデス

日 時: 2024年10月19日(土)15:00~17:30 

会 場: 京王プレリアホテル札幌 会議室

札幌市北区北8条西4丁目11-1


https://www.keioprelia.co.jp/sapporo/access/


参加費: 一般 500円、学生 無料


カフェの内容


今回は、ソクラテス以前の哲学者パルメニデス(c. 515-c. 450 BC)を取り上げます。パルメニデスは南イタリアのエレア出身で、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」、つまり、あるものは時間を超えて不変不動であると考え、「ト・エオン」(to eon;在るもの)の哲学を展開しました。「存在」そのものについて考えた初めての哲学者であるところから、最初の形而上学者であるとする人もいます。これは同時代のヘラクレイトス(c. 540-c. 480 BC)が唱えた「この世界のすべては動きの中にある」あるいは「パンタ・レイ」(panta rhei;すべては流れる)とする見方と対立するものです。今回はパルメニデスに焦点を合わせ、その哲学や形而上学の意味するところについても語り合う予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。


参加希望者は、she.yakura@gmail.com までお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。


会のまとめ





まず、天候が芳しくない週末にお集まりいただいた皆様に感謝したい。

前回はプラトンを取り上げたが、さらに根源にかえる意味で、今回はプラトン哲学(イデア論など)に影響を与えたパルメニデスの哲学を振り返ることにした。前半では、パルメニデス哲学の特徴とされる点について紹介した。彼は、紀元前6世紀に当時ギリシアの植民地であった南イタリアのエレアに生まれ、エレア学派の創始者とされる。彼は、個々の存在ではなく、「存在」というものの本質について哲学した最初の人、最初の形而上学者とされる。

ハイデガーによれば、ヘラクレイトス、アナクシマンドロスとともに、パルメニデスは真なるものをその本質において経験し、真なるものの真理を思考した。そこで思考されているものは「原初的」と名づけられ、その後の時代に繰り返し現れ、思考されたものを突き付けるのである。一般的な知は、何らかの事柄を知り尽くすことによってその対象を「制御する」ことが目的となり、科学が目指す知である。これに対する本質的な知は、存在しているものの表面的でバラバラの事実からのものではない要求に「注意深く耳を傾け思考する」ことに由来する。パルメニデスらが原初的な「思索家」と呼ばれるのは、「自ら」思索し、その思考のうちに自らを掛けたからであると分析している。

パルメニデスの思想は、唯一の著作『自然について』(ペリ・ピュセオース)という詩に表現されている。これはいろいろな人の証言を寄せ集めたもので、19断片、160行ほどの長さである。この詩は、(1)序詞(プロエミオン)=断片1、(2)真理(アレーテイア)の道=断片2~8.49、(3)意見(ドクサ)の道=断片8.50~19、の3部に分けられる。

断片1に書かれた(1)序詞では、パルメニデス自身と思われる語り手が女神に導かれ、「死すべき人」が住む暗い世界から光に満ちた、しかし「人間の踏み歩く道のとどかぬところにある」真理に至る知的な旅の様子が描かれている。そしてこの冒頭で早くも、語り手を迎えた女神は「まるい『真理』の ゆるぐことのないその心」だけではなく、「死すべき人の子らの まことの証なき思わく」も学ばなければならないと告げるのである。なぜ、真理だけではなく、「死すべき人」のおもわくについても学ばなければならないのか。大きな疑問として残る。

ここで言われている女神は真理の女神であり、次のセクションの主要テーマが真理になるので、先に進む前に「真理」について考えておくことにしたい。ハイデガーは、真理(alētheia)という言葉を<a-lētheia(a- 否定+lētheia 忘却)>と解釈し、その実体は日本語で「非・覆蔵性」と訳されるものであるとした。「非覆蔵性」が含意しているのは、真理(本質)は隠されており、覆われたベールを取り払わなければそれは見えてこないということである。換言すれば、前提として覆蔵性があり、それに対立するものとして真理が存在しているので、戦い取らなければならないものなのである。それは、「虚偽」と共に真理を考えなければならないことを意味している。女神が「死すべき人のおもわく」も学ばなければならないとした言葉とも重なってくる。真理という言葉だけを相手にする場合には、このあたりの事情を覆い隠してしまうところがある。 

プラトンの対話篇にヘラクレイトスの弟子クラテュロスを主題にした『クラテュロス』がある。その中にアレーテイアの別の解釈が示されている。それは alētheia を(alē 放浪+theia 神的な)とし、<バッコスの神的な放浪>と解釈するもので、真理の探究はパッションであり、一種の狂気でもあるという含みを持たせている。確かに、真理の探究には時空を広く彷徨い歩くことが求められ、そこにはパッションや狂気が必要になるかもしれないし、その営みには神的なものが漂っていると見ることもできるだろう。一見すると、ハイデガーの解釈とはかけ離れているように見えるが、ハイデガーの「非覆蔵性」に関与する争いの中にも同質のものが必要になると考えれば、両者の解釈は対立するというよりは相互に補完するものと見た方が、アレーテイアをより豊かに理解することになるのではないだろうか。

(2)アレーテイアの道では、「ある」「あらぬことは不可能」の世界が重要であり、「あらぬ」「あらぬことが必然」の世界は知ることができないので避けるように執拗に説かれる。「全くある」か「全くあらぬ」かのどちらかでなければならない。そして、あるもの(存在)は、「不生にして不滅」「姿完全にして揺るがず また終わりなきもの」であり、「すべてが一様」で「分かつことができない」とされる。この世界には生成も消滅もない。すなわち、無からの創造(Creatio ex nihilo)はなく、すべては永遠の中にある。

ここで、断片3にある「思惟することとあることとは同じである」という言葉について考えてみたい。これは前段の「あらぬものを知ることも語ることもできない」、すなわちないものについて我々は知的活動を行うことはできないということの理由付けとして、「思惟=あること」というフォルミュールを出している。断片8にも「思惟することと、思惟がそのためにあるところのものとは同じである」という言葉が出てくるが、その理由を、思惟が表現するところのものがなければ思惟できないためであるとしている。つまり、ないものについて思惟することはできない、したがって思惟されるものは存在するものである、と言いたいのであろうか。ただ、このフォルミュールについてはいろいろな解釈が出されているようである。文字通り、思惟という行為と存在は同じものであると解釈する人もいるようだが、この場合、汎心論的世界観にも繋がりそうである。思惟されるものは存在するものであるというところから、一人の主体としてわたしが心すべきことは、思惟によってしか存在を認識することはできないということになるだろうか。真理の道の話はこの程度にして、「死すべき者どもの思わく」を学ぶように言われる。この両方を学ぶことが重要になるという教えである。

(3)ドクサの道において話題に上るのは、真偽の識別に関する問題ではないかと想像していたのだが、様子が少し違う。出てくるのは、この世界の構造についてであり、人体についてである。これらは、当時の「科学」によって明らかにされた世界の構造と言えるのではないだろうか。もしそうであれば、真理から離れたドクサ(意見)の道、避けなければならないと女神が言う道は、科学が進める道ということになる。今の時点からものを言うとすれば、科学はコンセンサスを得て一つの知の枠組みをもとに進められるが、それはあくまでも暫定的な知であり、常に改訂される運命にある。永遠の真理とは程遠い。パルメニデスはドクサをこのような意味合いで使ったのだろうか。興味深いことに、パルメニデスは真理の道と「死すべき者の」意見の道の両方を学ばなければならないと言っている。上述のように、意見の道を科学とし、真理の道を仮に哲学だとすると、この両者を学ばなければならないという主張になり、我々に訴えかけるものがある。

ハイデガーはパルメニデスの哲学を以下のようにまとめている。

パルメニデスは、西洋哲学において存在そのものについて根源的な問いを出した最初の哲学者である。しかしパルメニデス以後、存在そのものを問うことが忘れられ(存在の忘却)、プラトン、アリストテレスあたりからすでに個別の存在の問題に焦点が移っていった。

さらに、

パルメニデスにとって、存在しないものはあり得ないので、生成、変化、消滅を否定した。存在は永遠で、変化せず、一である。この点で、ヘラクレイトスらの哲学とは一線を画す。

としており、これは一般的な見方になっているようにも見受けられる。しかし、フランスの哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)は、パルメニデスの哲学とヘラクレイトス哲学とは根底で繋がっているという見方を採り、次のように言っている。

ヘラクレイトスのように、すべては儚い見せかけに過ぎないと主張することは、そのこと自体の永遠性を主張することである。今在るものは、昨日在ったものではないが、存在するということは真実であり続ける。パルメニデスの「存在」は、過去未来とは関係のない「今、永遠の今」のことである。ヘラクレイトスの「パンタレイ」(panta rhei:すべては流れる)という言葉は、パルメニデスの永遠の現在(nun)の背景の上に刻まれているのである。


(まとめ:2024年10月20日)


* 第10回ベルクソンカフェ(2024年11月5日開催)においてパルメニデスを取り上げたので、参考までにその内容をリンクしておきたい。

(2024年11月7日)



参加者からのコメント


◉ 昨日はありがとうございました。原初的なこと、根源的なことを考える、またはそのような大切な問題があることを再認識する良い機会となりました。またお会いするのを楽しみにしております。


◉ 初雪予報のあった強風の夕方、いつものように会が始まる。紀元前6世紀に思惟を深めた最初の形而上学者・パルメニデスが今回のテーマ。まず初めに、知識で終わる世界と、知識から始まる世界の紹介。ややもすると科学的事実(実験や観察結果など)に焦点が止まりがちな多忙な現代にあって、より深い省察や思惟に時間を費やすことで、より深い自然認識が可能になるとの前置きでスタート。パルメニデスの残した推論的思考(合理的要請)での世界の理解の紹介へと進んだ。

存在そのもの、今この瞬間に在ること・存在の本質と思惟の同一性での存在の永遠性の強調があった。いずれにしても、自ら思考し、その思考のうちに自身を賭けるパルメニデスの姿を、序話、真理の道、そして意見の道という段階での説明であった。そして、断片の具体的記述の紹介を通して、隠蔵のなかにあるものが白日に晒される非覆蔵性としての本質とそのアプローチについて具体的に紹介があった。 

各断片を通し、思惟と存在、そして生成・変化・消滅を否定し、今この瞬間の存在そのものに思考を集中させるパルメニデスの存在をハイデッカーの言葉で紹介されていた。この瞬間の存在、現在この時点での存在の強調は、すべては流れるというヘラクレイトスの時間軸とは異にするもの。存在=思惟という、真の知は存在するものについてのものといった、実在論(リアリズム)に近いようである。

そして、最後にパルメニデスを含めた哲人の思惟に人生を送ったマルセル・コンシュという哲学者の紹介もあり、会は終了した。日常生活の中、そして職業人として今を多忙に生きる自身の中に新たな視点を授かった、そんな気分で会を後にした。


◉ 貴重な研究会を開催して頂き、ありがとうございました。哲学の思想は極めて抽象的であるので日常生活には直結しないのですが、パルメニデスの思想だけでなく、マルセル・コンシュの哲学など興味深い話に溢れ、自分の知的世界を揺さぶるには十分すぎる内容でした。最近は、近所に独居の老人が多い関係で高齢者福祉に関心があるのですが、福祉制度は科学以上に硬直的なもののように感じられます。矢倉先生は、哲学で科学に新たな展開を導入しようとしていますが、福祉制度には科学以上に哲学の導入が必要なように感じました。懇親会では、矢倉先生を始め、参加者から日常生活では得られない貴重な話を聞くことができ、楽しい時間を過ごすことが出来ました。


◉ 私のような素人にまで丁寧に分かりやすく哲学をご教授いただき深くお礼申し上げます。次の機会を楽しみにしております。


◉ 









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